「……ねえ、なんで、そうしたの?」と聞いただけなのに、突然、相手が怒りだした……。そんな経験はありま
せんか?何気なく疑問に思って、「どうして?」「なぜ?」と聞くことは日常の中ではよくあることです。単に行動
の理由を知りたい。……けれど、相手はそれを攻撃された、非難された、と受け取って、突然、キレたり、反撃し
てきたりする、最近、そういう人が(特に女性に)増えているそうです。
さて、最近よく「対話がない」という声を聞きます。夫婦間、親子間で「対話」が無くなったというのです。昔の
ような家族で食卓を囲む家庭の団らんが消えたことがその原因なのでしょうか?
私は「対話がない」のではなく、「対話が成り立たない」のだと思います。
子どもは一般に親に対してとても気を遣っています。いつだって子どもは親よりも高い振動数で生まれてき
ますから、親に対して気を遣うのは普通の現象なのですが、「対話が成り立たない」という問題には閉口して
いるようです。
母親または父親が、すぐに感情的になるために「対話が成り立たない」のです。親が何かを子どもに相談す
る時、「賛成の意見以外に言えない」状況が多々あるというのです。少しでも反対意見を出そうものなら、すぐ
に感情的になって怒鳴る、泣く、暴力を振るう、不機嫌になってしまう……、と。これでは、親子間の「対話」は成
立しません。
自分の子どもだからといって何もかも自分の考え方に賛同するわけではありませんから、時には反対意見
が出るのも当然と言えば当然なのですが、「子どものくせに」とか「所詮、世の中の事を何もわかっていないん
だから」とののしるように言ったりします。すると、子どもはそう反応されるのがイヤで、「うん、いいんじゃない」
と曖昧な返事をしたり、『……だったら、聞かなきゃいいじゃない』『早く家を出たい!』と秘かに決意したりする
のです。
まあ、それも子どもの自立の促進になっている要因でもありますから、結果オーライという観点ではそれも
アリなのかもしれませんが、問題の本質は「対話の成立しない」状況が感情によって起きていることなのです。
「自分が正しい!」と主張する人は、他人の批判や心配を「悪」そのもののように嫌悪します。それは、本当は
どこかで「間違っているかもしれない」と恐れているからなのですが、それを受け入れてしまったら、「正しい」
と思っていた現象が全て幻想のように消えてしまうようで恐ろしいのです。
これは人の意見を論理で受け取れず、感情や時には記憶で対応してしまうからなのですが、それでは「対
話」は成立しません。自分の「痛み」に敏感で、他人の「痛み」には鈍感な人が多いのも「対話力」の欠如が要
因のように思います。
また、そういう人は「あの人はこういう人だ」と他人を自分の都合の良い(或いは、悪い)ように思い込み、そ
れがあたかも「真実だ」と錯覚してしまったりします。
けれど、「それ、違うように思うよ」と誰かに指摘されると、感情的になってピシャリと心を閉ざしてしまうので
す。だから、「対話」が成り立ちません。その感情的な反応がイヤで、周囲の人はその人を腫れ物に触わるよう
に用心深く接しますが、そのことも本人は「自分に気を遣ってくれている」「大切にされている」と勘違いしてし
まったりするので、いっこうに「対話力」が育っていきません。
……今、ビジネスの世界でも「対話力=コミュニケーション力」が重要視されています。自分の言いたいこと
だけを一方的に述べるのでなく、相手の言いたいことを「受けとめ」、「理解する」ことが必要とされています。
声の大きい者の勝ち!は、これからは対話力の欠如と見なされるのです。それは、「言いたいこと」ではなく「言
うべきこと」の“感情”から“論理”への転換を意味します。
では、どうすれば「対話力」を養えるのでしょうか?
それは、「自分と人とは違う」ということを恐れること無く“受け入れる”ことだと思います。自分と違うのだか
ら、考え方や思うこと、意見が違っても当たり前だ。いいえ、そのことこそが「自分の視野の範囲を超えた」貴
重な意見なのだ、と思えるようになることなのだと思います。
それには、まず「自分が正しい!」という頑なな“思い込み”を止めることです。そして、自分の考えは「論理」な
のか「感情」からなのか?を“正しく見る”ことです。自分の考えが論理ならば、他の論理を学べる、と謙虚にな
れますし、感情ならば、何故、そのように考えたのか?と内側を見つめる機会にもなります。
そうして、一歩ずつ「対話力」を築いていくのです。残念ながら、「相手の痛み」を“察する”ことの出来ない人
には、対話力は一朝一夕では身に付きません。ですが、努力をする意志があれば、対話は思うほど難しくない
ということや、対話によって自分を磨くことの楽しさも理解できるようになります。
そのとき、私たちは広い視野を手に入れられるのです。