「あの人、悪い人だ……」
「あの人、とってもいい人ね」
世間ではよく聞かれる言葉ですね。しかし、残念ながら共に誤解だったりします。
何故なら、自分の思っている、或いは見ている相手は、自分の感情の中だけで存在するからです。良い人も悪い人も「ただ自分にとって都合が良いか悪いか」だけだったりします。だから、何かのきっかけで自分の知らない“相手”を見たときに不安になり、「そんな人だとは思わなかった」と嘆いたりするのです。その人は、最初からそういう人だったのかもしれないのに……。
人は「同じものを見ても同じものにあらず」なのです。例えば、恋人達が夕焼けの美しさに一緒に感動しても、その感動の度合いは微妙に違うのです。「ねえ、今の人、かっこよくない?」と誰かが言っても、「そう?フツーだよ」と賛同しない人もいるでしょ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいわゆる五感も直感的な第六感さえも個人における“真実”に過ぎないのです。
……人は、自分の見たいものだけを見、聞きたいことだけを聴き、信じたいものだけを信じて生きています。ある意味で、真実はどこにも無く、自分の中だけの“真実”にしがみついている状態とも言えます。それで、共に働いたり、恋したり、愛し合ったり、生活したりと互いに共同幻想を構築し、挙げ句、その中で悩んだり、苦しんだり、喜んだりしているのが私たち人間の社会の正体なのです。
……それは、森の中にいて、森だけを真実として生きている三次元の世界です。
さて、私たちの見ているものが真実でないのなら、私たちはどう世界を見れば真実に近づくことが出来るのでしょう? ……真実? そんなもの見たくないよ! という人もいるかもしれません。それも自由です。自分の中の幻想で生きるのも良いでしょう。独りで生きていくのなら。でも、人は文字通り支え合って生きている存在です。独りでは生きていけません。誰からも必要とされないことが一番の恐怖だったりします。
……ならば、相手を正しく見てみませんか? 目を閉じて、見てみませんか?
それは、感情では無く、論理で相手を見ることを意味します。
私が、幻想から醒めさせる為に、「今、目の前にある事実だけを並べてごらんなさい」と言うのも、感情で曇った目で見て、どんどん自分の感情に溺れていって真実から遠ざかってしまうのを防ぐ為です。
事実だけを見る、現実に起きていることだけを並べる、そうすれば、「こうなったらどうしよう?」「やっぱりダマされてるの?」という、まだ起きてもいないことを心配したり、確かめてもいないことで不安になる余計な感情は入り込めません。
では、「論理で見る」とはどうすればよいのでしょう? 感情から論理に切り替えるには3つの定義をいつも基本にしてください。
1、なぜ、この人はこんなことを言うのだろう?真の目的は(Why?)
2、何処に問題があるのか?(What?)
3、どうしたら良いのか?(How to?)
その三つの視点で人や物事を見る癖を付けていってください。
「感情の中から思考していた」が、どういうことだったのかが解ってくると思います。
自分が人やモノを今までどう見ていたのか? どのような思い込みの中にいたのか?に自分で気づけたら、その人はきっと“人”や“世界”に初めて本当に触れたことになり、「論理性」という視点を手に入れられるのだと思います。