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【第五十四回】

【第五十四回】

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THE 霊学 » 前回のコラム
執筆 : 
BLBLBL 2011-2-28 6:30
人、その不可思議な者― 人は何故、幸せや光を求めるのか? 


 「人はどこから来て、どこへ行くのか?」この命題は、遙かな太古から人間が求め続けてきたテーマだと思います。それは、言い換えれば、「What am I ?」-私は何者か? の探求でもあります。狭義の意味では“自己の探求”であり、広義では“人間の正体”を知りたいという欲求にほかなりません。
 この問いかけに答える為に、古来より哲学者や科学者、芸術家、宗教家などが虚空に挑み続けました。ある者は超絶的な芸術的技巧で、ある者は宇宙と一体化を計る瞑想的方法で、またある者は厳しい修行によって人間の限界値を超えようとして……。

 しかし、誰一人、“正しい答え”をもたらすことは出来ませんでした。論理として、人の正体は、人間の内からは発見できないからです。
 例えるなら、蟻は二次元を生きる生物です。縦、横、高さがある世界でも、蟻にとってはどこまでも平坦な道に映ります。机の上を這っていて、机が直角に曲がっていても、平面を突き進んでいるからです。もちろん、これは比喩的表現です。小さな蟻に対しても地球の重力は働きかけますから、垂直の壁を登っている時は微かなGがかかっています。時には落ちてしまうこともあるでしょう。ただ、視点として見れば、蟻の視点に映る世界は何処までも二次元であるという仮定なのです。それに対して、羽のある昆虫や鳥、他の動物は、高さの空間認識を持っています。つまり、二次元を超えた彼らは二次元を認識できるわけです。しかし、その彼らも自分達が三次元の世界に居るという認識は持てません。その次空間を認識できるのは、三次元を超えた生命体でないと無理なのです。一般に四次元の定義は「時間」であると云われています。過去、現在、未来を区別し、認識できるのは、私たち人間だけです。犬や猫も夢を見て、昔の記憶を思い出したりしますが、それを“過去体であると言えます。それを”の出来事であるという認識はないのです。ですから、人間は四次元を生きる生命可能にならしめているのは、脳の認識領域であり、さらに次に進める可能性を持っているのも脳の容量と使用領域から見ても明らかです。よく言われるでしょ。「人間は一生のうち、脳の7パーセントしか使っていない」と。使われることのない臓器は盲腸のように退化します。しかし、脳は退化しません。それは、使われるべきチャンスが残されている証拠です。
 そのチャンスとは、進化を果たし、宇宙に出る可能性を有していることを意味します。

 人の正体或いは本質が、人の内から認識が出来ないのなら、外から論理として推測するしかありません。それを可能ならしめるのが“原因”と“結果”のエネルギー的視点で思考することの出来る「霊学」なのです。 

 さて、人の正体とはいったい何なのでしょう?
 霊学的論理思考として捉えるなら、人の欲するモノから思考していくことができます。
 まず、多くの人は「幸せ」を求めますね。
 “幸せ”にも人の数だけ定義があり、さまざまな幸せを求めて人は生きてきました。
 それは、人が「幸せ」を知っているから、求めることができるのです。
 “まったけの土瓶蒸し”が好きだ、あるいは、“フグのてっちり”が好きなんですと言う人がいたとします。その方達は、かつて食べた、経験した記憶があるから言えるのでしょう。全く食べた事の無い人は、興味は持っても「好きだ!」とは言えません。
 「幸せ」も同じで、人が何処かで「幸せだった」記憶を有しているのです。だから、求め続けるのです。

 私はかつて「人は、幸せな状態が自然体である」と言いました。自然体とは、“あるがまま”という意味です。「幸せを感じて生きていることが人間らしいありのままの姿」であるとも言えます。しかし、それがなかなか叶わないから、人は求め続けるのでしょう。
 では、「幸せだった記憶」とはいつのことなのでしょう?
 人はご承知のように、多くの転生を繰り返して地上に降りてきます。
 「今度こそ!」という強い決意を持って。
 これが、人が「性善説」である証拠でもあります。もし、人の正体が「性悪説」なら、人生を「やり直したい」とは思わないからです。
 何度も転生を繰り返し、自分の“課題”を克服していく。何のために? 自己の完成を求めて……。では、それは何のために? それは、「幸せ」の記憶を体現したい為と言っても過言ではないと思います。

 さて、霊学的論理として思考してみてください。
 一般に、病気の人は“健康”を求めますね。貧しい人は“お金持ち”になることを。反対に、健康な人は特に“健康”を、お金に困っていない人は、特に“裕福”という概念は求めないものです。
 では、「幸せ」を求めるということは、今、現在「幸せではない」と感じている、またはそう考えていることを意味するのではないですか?
 そこまで極論的に考えなくても、「幸せ」を感じる瞬間は、おそらく幾つもあり、それを持続させたいと願う人は多いはずです。そして、それは「自分にとって何が一番幸せな状態か?」という「生まれてきた意味(理由)」の追求に繋がっていきます。 
 つまり、「幸せ」を求めるのは、自分の存在理由への問いかけを意味するのです。
 もう少し、論理としての“遊び”におつきあいください。
 人は、「幸せ」と同じように、「光」を求めますね。
 どうしてだと思います? 自分が「光そのもの」なら、わざわざ「光」は求めなくて良いはずですね。では、人の正体って、「闇」なの?! と驚かれるかもしれません。
 それも極論すぎます。
 
……ひとつ、疑問に思いませんか?
 どうして人は、何度生まれ変わっても、「戦争」を繰り返すのだろう? 同じ過ちを克服できないのだろう? と。
 それは多くの心ある人が悩み、苦しんできたテーマでもあります。
 インドの哲学者クリシュナ・ムルティは、「人の恐れが動物達を変えた」と言っています。この星が弱肉強食のように「喰らいあい」を繰り返しているのは、人間の“恐れ”の反映なのだと。
 ミルトンの『失楽園』には、ライオンが羊と共に草をはみという表現が出てきます。そんなものはイリュージョンだと思いますか? テレビとかで犬猿の仲と言われる犬とサルが仲良くしているところを見た人はいるでしょう。一緒に育ち、両者の間に“恐れ”がない状態では、「争い」は生じないのです。
 相手を知らないことが“恐れ”に繋がる構図。だから、イエス・キリストは「汝の敵を愛せよ」と言ったのです。「あなたが敵だと思って剣を向けている相手は、あなたの知らない人間ではないのだよ。かつて(過去生)のあなたの兄弟や親、子供だったことのある、よーく知っている相手なのだよ」と。

 ここで、「慈悲」の定義を出したいと思います。
 「慈悲とは、未だ本当のことを知らされていない者の哀しみを知ること」であります。 剣や銃を向けた相手が、自分の愛した家族だったなんて、これほど哀しいことがあるでしょうか? 
 そんな人が、本当のことを知ると「悲しむ」でしょう。もし、人が「闇」そのものならば、悲しんだりはしないのです。そういう感覚さえ、認識と理解ができないからです。
 ならば、「悲しみ(哀しみ)」を知る“人間”とはいったい何者であるのか……?

 ひとつの仮定として聞いてください。
 人間の事を慈悲の目で視る存在があります。上述しましたように「未だ本当のことを知らされていない」からと。
 その「知らされていない本当の事」とは、いったい何なのでしょう?
 整理してみましょう。
 人が光を求めるのは、人の中に光がないからです。光に溢れていれば、光など求めません。では、光の反対は闇だから、単純に人の正体は「闇」かというと、それも的を得てはいません。理由は、闇ならば、何故「光」を求めるのか? に疑問が繋がるからです。「やり直し」を願って転生してくる意味がないことになるのです。
 人が「光」を求めるのは、光を知っているからです。或いは、幸せと同じで光の中にいた“記憶”があるからです。
 では、何故、記憶だけで、「今は無い」のか?
 ……失った?、……いつ?、……何処で?、……どうして?
 かつて光に触れていた、あるいは光を有していた。それをいつの頃からか失った……。
だから、それを取り戻す為に、何度も転生を繰り返してきたのだとしたら……。

 では、何故、何度も「戦争」という光とは反対の愚を繰り返してきたのか?
 私は、それを「自己処罰」なのだと思っています。
 最初は光を持っていた。けれど、いつしか失ってしまった。それが「原初の罪(罪悪感)」です。でなければ、これほど人は自分を、そして、他人を責めたりはしません。
 究極の自己嫌悪、それが、「恐れ」の正体であり、破滅願望でもあるのです。自己破壊願望なのに、転生を繰り返す……矛盾でしょう。
 宇宙に「矛盾」は存在しません。「理不尽」が存在しないのと同じように。そこに「理由」と「意味」が有るのです。
 人が生まれてきたのには、ちゃんと意味があります。転生を繰り返してきた理由があるのです。

 聖書の中の「ルシファー」は、堕天使として、光から闇に墜ちた象徴として描かれています。かつて神に最も愛されたのに、自らの“ 意志”で神に背いた、と。
 しかし、人智学の提唱者であるルドルフ・シュタイナーは、ルシファーの存在を「自我」として捉えています。自立の為の一つの進化の過程であると。ギリシャ神話の、人間に火を与えてゼウスから罰せられたプロメテウスを彷彿させます。
 この宇宙は、陰陽の働きとして2160年(黄道12宮×180回)の周期で“霊化”と“物質化(顕在化)”を繰り返しています。当然、人間の存在もその中に組み込まれます。
 そして、人間は「個」の確立の為に、“自我”を持ち、敢えて「全体」から離れます。離れた時に感じるのは“孤独”と“痛み(恐れ)”です。それが『旧約聖書』に「楽園エデンからの追放」として伝えられる秘事なのです。

 自我は、「自分という存在」の確立のために生まれました。しかし、陰陽のバランスとして、その自我が強大になりすぎますと、自他の区別が進みすぎ、自分ではない「他人」を恐れるようになります。それが、他者への恐れ→“争い”になるのです。
 恐れの反対語が「愛」です。つまり、恐れとは、愛の不在です。闇が光の不在であるように……。
 では、何故、人は「愛」を求めるのか? 知らないのか? かつて、愛(光)の中にいたのに……。
 次空間の認識の話を思い出してください。その次元に留まっていては、その次元を外から認識する事はできない。つまり、愛の中に居ては、本当の「愛」を認識することが出来ないのです。だから敢えて、家を出た。そして、自分を見失ってしまった。光の中に居たのに、光を失った、愛の中にいたのに愛を失った。
 しかし、その真の理由は、与えられた愛(光)ではなく、自分から愛(光)を発動させる為であった……。けれど、それを「自己嫌悪」の為に思い出せなくなった。
 かつて光を知っていた、かつて愛を知っていた、その存在こそ「魂」なのです。
 ……そして、自我が生まれた為にずっと苦しんできた。ずっと争いあってきた。自分の出自を見失って。而して、その自我は、愛(光)の自らの発動のためにこそ生まれた。
 離別と融合(共感)のために……。
 それが「未だ本当の事を知らされていない者の哀しみ」の「本当のこと」なのです。
 さらに、愛の発動、光の発動が、人間の「進化」の意味であり、人が生まれてきた、この宇宙に存在する本当の理由(意味)なのです。

 光は強い、愛は強い。……しかし、闇と恐れの中から生まれた(克服した)光と愛はもっと強いのです。この宇宙全体を進化させるほどに。
 だから、その事を信じて転生を許してきた存在、また論理としての脳の容量という事実を残した、それをもって「神」という存在は“或る”証明たり得るのです。
 人は、愛を学ぶために生まれた。内側から光を発するために存在した。ならば、それを忘れ、超えられない、いや、人間を超えようとしないことは、今度は「人間」としての不在証明となるのではありませんか?
 人という“種”が問われる課題。進化するという本当の意味、私たちはもう一度、原点に戻って考えてみる必要があるように思います。








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